コービー・ブライアントがNBAに残したもの
1/27早朝、信じられないニュースが飛び込んできた。
伝説のNBAプレイヤー、コービー・ブライアントが搭乗していたヘリコプターが墜落し亡くなった。
同乗していた娘のジアナも含め、5名が他界した。
コービーが死んだと聞いて、あまり理解できないというか認めたくない、そんなはずはないと思いながらFM宝塚の局に向かった。
3時間半の生放送が終わり、事務作業も終え帰路に着く中で色んな記事を読んで本当にもうコービーはこの世にいないんだと実感が湧いてきて悲しさが込み上げてきた。
家に着いてからは彼の現役ラストゲームを再度しっかりと目に焼き付けた。
12年前、私は中学でバスケ部に入った。
当時はNBAのことなんて全く知らなかったが、名前を知っている選手は二人いた。
コービーはバスケの神様と肩を並べるほどの存在だった。
2日続けてNBAの話題はどうかと思ったが感情の整理が追いついていない今だからこそコービーの記事を書きたいと思ったので殴り書きになるかもしれないが以下記す。
『ブラックマンバ』
コービー・ブライアント 背番号8.24
1996〜2016 ロサンゼルス・レイカーズ在籍
ポジション:シューティングガード
【主な受賞歴】
NBAチャンピオン:2000, 2001, 2002, 2009, 2010
NBAシーズンMVP:2008
NBAファイナルMVP:2009, 2010
NBA得点王(1試合平均):2006,2007 など
2010年代のNBAがレブロン・ジェームズの時代とするならば2000年代はコービーの時代だった。
高校卒業からNBAデビューを飾り、1996年にロサンゼルス・レイカーズに入団したコービー。
当時の背番号は8番。
彼はあまりにも自信満々でビッグマウス、生意気すぎるその態度に初めはどの選手も嫌悪感を抱いたそうだ。
さらにコービーは大がつくほどの負けず嫌いで厄介な若造というような印象が強かった。
しかし彼は誰よりもバスケを愛し、誰よりも練習に励んでいた。
チーム練習の7時間前からコートで自主練習を行う。
睡眠時間は3.4時間程度、寝ても覚めてもバスケのことだけを考え、身体を動かしていない時もバスケの戦術理解や攻撃パターンなど常に頭を巡らせていたそう。
彼の異常といえるまでのバスケ愛とそのストイック過ぎる姿勢に周りも彼を徐々に認めていった。
プレイスタイルは攻めのパターンが無限といえるほど多く、どこからでも点が取れる典型的なスコアラータイプ。
派手なダンクやキレッキレのドライブ、美しいシュートなど見ているだけで魅了される選手だ。
また、マイケル・ジョーダンに強く憧れており、ビデオを何度も見て何度も練習したと発言している通り、ジョーダンの技を完全にコピーしている。
プロ2年目にはオールスターに選ばれ、その実力を証明する。
シャキール・オニール(以下シャック)という当時最強のビッグマンを相方に、4年目にはリーグ初優勝。
2000-2002シーズン、リーグ3連覇という偉業を成し遂げた。
若き日のコービーとシャック
しかしそのシャックとの関係に亀裂が入り始め、この伝説のコンビは2004年にシャックの移籍という形で解体されてしまう。
そこからレイカーズはしばらく冬の時代を迎えることとなる。
コービー自身の成績は凄まじいものの、チームメイトの活躍が無く、中々勝てない。
しかしチームを勝たせられないエースの扱いはどんどん酷くなる一方だった。
一方で移籍したシャックはというと移籍先のマイアミ・ヒートで自身4度目の優勝を果たしていた。
「シャックがいないとお前は勝てない。」
「お前の自己中心的なプレイにはついていけない。」
プライベートのスキャンダルも相まって、様々なバッシングを一身に背負うことになったコービー。
しかし彼は紛れもないスーパースターだった。
逆境を跳ね除けるメンタリティの持ち主だったのだ。
背番号を『24』に改めたコービーは、チームメイトに不満を漏らすなどという無駄なことは一切やめ、勝利にだけ意識を向けるようになる。
プレイに集中し、リーダーシップを発揮し始めた彼にチームメイトもついて行くようになった。
トレードでの補強もあり、レイカーズはどんどん上昇気流に乗っていった。
結果2009年、2010年とリーグ連覇を成し遂げたコービーはシャックの優勝回数を超え、数々の非難の声をその実力で黙らせた。
この頃にはコービーが現役最強選手であることを疑う者など誰もいなくなっていた。
バスケ以外の無駄なことを全て削ぎ落とし、ただ勝利だけを求める。
狙った獲物は絶対に逃さない殺気にも似た彼の気迫から、コービーは世界で最も危険な猛毒蛇の一種『ブラックマンバ』と呼ばれるようになった。
そしてコービーは、2012シーズンアキレス腱断裂という最悪の怪我を負ってしまった。
そこから怪我がちな選手となってしまったコービーはキャリア晩期は出場時間も限られ、後続育成の選手というような立ち位置になっていた。
そして2016年に惜しまれながらも現役を引退した。
【伝説の引退試合】
コービーの伝説は5度の優勝だけにとどまらない。
2016シーズン、レイカーズのレギュラーシーズン最終試合。
レイカーズは若手中心のチームになっており、勝率は低くプレイオフは既に出場出来ないことが決まっていた。
つまり、コービーの引退試合である。
対するユタ・ジャズも惜しくもプレイオフ進出出来ないことが確定しており、完全な消化試合で試合を最後までやって後はコービーの引退の言葉を待とうといったような雰囲気だった。
しかし誰よりも負けず嫌いなコービーが、最後の試合で覚醒する。
試合終了まで残り約3分で10点ビハインドだったレイカーズはコービーの連続得点で逆転。
バランスを崩しながら撃ったり、ディフェンスに激しくマークされながらキレッキレのドライブで相手を抜いたり…。
さながら全盛期のコービー・ブライアントが蘇ったかのような活躍でついに逆転。
最後はコービーのアシストでチームメイトが豪快なダンクを決め、勝負あり。
残り4秒でコービーコールの大合唱の中、コートを後にした。
コービーの記録は60得点。レイカーズの得点の半分以上を一人で取ってみせた。
引退試合の記録としてはブッチギリの1位で歴代最高のスコアラーであることを最後に証明した。
まさに伝説の試合だった。
【コービーが残したもの】
現役NBA選手の中にも、コービーに憧れてバスケを始めたという選手は多い。
彼が残したインパクトは強烈だ。
ただ強くて一時代を築いたのではなく、華やかで派手で闘志溢れるそのプレイはNBA、いやバスケットボールを知らない人たちにもその名を轟かせた。
今のNBAがあるのは紛れもなくコービーのおかげである。
時代は変わる。
マイケル・ジョーダンからコービー・ブライアントへNBAの象徴が受け継がれたように。
今はコービーからまた受け継がれ、レブロン・ジェームズがNBAの顔と言えるだろう。
そんなレブロンが1/25の試合で通算得点でコービーの記録33643点を抜き、歴代3位に浮上した。
現地時間でその日の夜、コービーは事故にあい、亡くなった。
最期なってしまったコービーのTwitterの呟き
Continuing to move the game forward @KingJames. Much respect my brother 💪🏾 #33644
バスケットボールを進化させ続けてくれ。
時代を託したともとれる発言。
自分を超えていった後輩を称賛し、次の世代へ時代は移り変わる。
本当の意味でのバトンはこの日に渡されたのかもしれない。
コービー・ブライアントがNBAに残したもの。
それは今のNBAそのものであり、現代のスーパースターである。
そして次世代のスーパースターも彼のプレイを何度も見て今後生まれていく。
彼がマイケル・ジョーダンのプレイを見返してプレイを真似たように。
コービーは今後も永遠に語り継がれる伝説のプレイヤーである。
コービー・ブライアントのご冥福をお祈りします。