好きが言えなくて…2020夏
小中学校くらいまでは個性が殺されやすい環境にあると思う。
恋愛にせよゲームにせよ担任への評価にせよ
「好き」という単語を発するのは相当な勇気がいることだった。
食べ物で例えてみよう。
A君が好きだといった食べ物をB君は嫌いと言う。
よくあんなもの食えるなとまで言ったとする。
人が好きなものを批判してマウントとる奴だ。
そうするとA君はB君より下の感覚が鈍いとか劣っているように思えてきてしまう。
本来味覚なんてものは人によって違っていて当然で、食べ物の好みなんて千差万別。
なにも気にすることはない。
しかし一度マウントを取られてしまうと、劣等感に苛まれたA君は今後食べ物の話題を振りにくくなってしまうだろう。
日本の教育現場がどうこう言うつもりはないが、幼い頃はそういった「好き」より「嫌い」が言いやすかった印象が強い。
実際それは私にも強く反映されていてひねくれまくったのはそれに起因しているのかもしれない。
誰かの意見を頭ごなしに否定して、否定して、否定して。
じゃあ結局自分の言いたいことは何なのか。
そんなものありはしない。否定したかっただけなのだから。
今思えば本当にしょうもない。
否定を繰り返して待っていたのは何もない空っぽの自分でしかなかった。
人と違うことは好んでしていたが、自分の好きなことをしていたかと言われるとわからない。
絶対的な自分の価値観があったというより人と違うものを選んでいただけかもしれない。
高校くらいになると個性が認められ始める。
大学にもなるとより自由度が上がり、個人の選択の連続になる。
結局自分のやりたいことがわかるまで社会人1年間かかってしまった。
今は話す仕事が好きだと声を大にして言える。
しかし幼き日の傾向は今でも色濃く残る。
何事もまず否定的とまでは言わないにせよ、懐疑的に見てしまう。
「好き」と言う勇気が未だに持てない自分がいる。
好きな映画、好きな音楽、好きな俳優、好きな漫画、好きなドラマ、好きな食べ物。
今まで「好き」を中々表現出来なかった自分からすると、割とこれらのハードルが高い。
〜というは歌手は好きは好きだけれど、Liveに通うほど好きではない。
そんな状態で好きといってしまうと本当のファンの方に申し訳ない。もしくはにわかだとバレてしまう。
そんな思いが巡ってプロフィール欄のところでペンが止まる。
もしくはそもそも趣味の分野が狭く、色んな物事を知らないだけかもしれない。
本当に好きと言えるモノたちに出会ってないだけかもしれない。
自分の気持ちなんて自分でもわからない。
ていうかこんな形のないことをだらだらと書き連ねている時点で文を書くのは割と好きなんだろう。
これはブログを始めるまでは気付かなかった新たなる発見だ。
とりあえず動いてみて、自分の気持ちがわかることもある。
次の休日には少しお出かけをしてみようか。